「なんとなく食べる」のをやめてみた。
自分は「太らない体質」だと思っていました。
食べたいものを食べたいだけ楽しく食べて、活動的に、朗らかに過ごす。
それがいちばん、と思っていました。
でも、ここ2,3年で5kg以上太りました。
それに、そもそも「自分が何を食べたいのかわからない」「特に食べたいものがない」ことも多く、だから「楽しく食べる」ということもなく(でもたくさん食べる)、活動的でもなければ朗らかでもなかったのです。
どんな感じだったかというと:
なんとなく食べる。
↓
なんとなく体が不調。いつの間にか太る。
↓
なんとなく自己評価が低い。
このような感じでモヤモヤしていたのです。
「自己評価が低い」という部分だけにフォーカスして、心理学とか瞑想とか自己啓発の本も色々読みましたが、今回、筋トレを始めてみて思ったのは、
「体を変えちゃった方が早い」
ということです。
なんとなく生きていたら年を取れば色んな部分が当たり前に衰えていくのですよね。
もちろん、それを受け入れるというのもひとつの能力というか成長かとは思いますが。
以前、アルコールや色々な依存症の自助グループについて本で読んだりしたのですが、その中で「変えられるものと変えられないものを見分ける知恵」という言葉と出会って、それを心にとめるようになりました。
「変えられないもの」とは、例えば、
自分の過去。
夫がああいう人であるということ。
年を取っていくという事実。
などなどです。
それに対して「変えられるもの」とは、
自分の過去についていつまでも自分を責めるか、それとも責めるのをやめるか。
夫とどのような関係を作るか。
どのように年を取っていくか(=どのように日々をすごすか)。
といった、「自分で選べること」です。
筋トレを始める前の自分は、なんとなく生きてきた結果、なんとなくこのような体になってしまった。(だるい。動けない。すぐ疲れる。太った。)
自分はダラダラ食べちゃうだらしない性格なんだ。こういう体質で、こういう生き方なんだ。
って思ってました。
けど、色々と体調不良が続いて落ち込んだあとに、
体質は「変わらない」って決めてかからないで、多少は改善できるんじゃないか。
年を取ることは選択の余地がないけど、「衰えるだけ」っていうのは違うんじゃないか。
と考えるようになりました。
まあ最初は「生き方」とか考えてシリアスに筋トレを始めたわけじゃないんですけど、今にして思えば、
「自分で選べる」ものまでずーっと放棄して「負けっぱなし」みたいな気持ちでいるのが、悔しくなった。
そんなふうに感じていたのかもしれません。
筋トレの本には「自分の体をデザインする」って書いてある。たまらなくカッコイイと思いました。
体重が長いこと変わらなかったせいもあり、口に入れるものにいちいち気をつかうというのは辛気臭い気がして、ダイエットはほとんどしたことがありませんでした。
(高校のときに「レタスしか食べない」みたいな絵に描いたような過激なダイエットをしてウツっぽくなり、リバウンドで過食気味になったというトラウマのせいもあります。)
今回、かなり地道なダイエットをしている気がします。
まあ実際、一瞬たりともまったくしんどくない、などということはないのですが、でも食べる量を減らすと「じゃあその貴重な食べる機会には何を食べる?」ということを真剣に選ぶようになりました。
筋肉に関しては、スタート地点であまりにも少なかったせいか、すぐにある程度の効果が実感できたので楽しいです。1ヵ月半続いているのが正直自分でも意外です。
最初は「体が衰えるのを少しでも食い止める」という謙虚な目標を持っていたような記憶がありますが…いつの間にか「目指せハル・ベリー」とか思ってしまっているあたりお調子者です。
さて「自己評価」は上がったかといえば。
そうですね、例えばバイト先で「缶ビール24本入りのケースを賞味期限が近いのが上に来るように積み替えなければ」なんてときに、以前だったら「めんどくさ」と思っていたのが、「ヒャッハー、燃えろ脂肪」とか思ってガシガシ積み替えてる自分は好きです。
ともかく、「なんとなく」食べていたときよりは楽しいです。
ぼさーっと、ダラダラ―っと過ごすのは「たまに」だから素敵なのでしょうか。